捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

スペース

 Twitterのスペースという音声配信機能には、言葉のやりとりが映像や文字と異なる形で、感情の奥行きや微妙なニュアンスが伝わるという特性がある。けれど、その特性が時として人々の内面を余計に露わにしてしまうこともあるようだ。

 

 先日、あるスペースに参加した際、一人の女性が「生ぬるいメンヘラ」に対する不満を次々と語り始めた。その話が一区切りつくと、今度は彼女の幼少期の虐待や苦労の話へと展開された。それに対して、スペースを主催していた男性が「でもそんな経験をしたのにしっかり生きていて素直に凄いと思う」と言葉を添えた。

 

 彼女は「そうなんですかね」と応じたが、その返しには満更でもない様子がうかがえた。私が感じたのは、彼女があえてその具体的なエピソードを語ることで、相手からの肯定的な反応を引き出そうとしている姑息さだ。

 

 それに対して、男性は「生ぬるいメンヘラ」について同意していたのに、この話になると彼女を「生ぬるいメンヘラ」から外す都合の良い基準を持っていることが透けて見えた。二人のやりとりは、どこか色気がないというか、表面だけをなぞっているように思えた。

 

 なぜ、人間はこうまでして他者からの承認を求めるのか。その承認が、実際には何か別のもの、例えば安心感や存在価値の確認に近いものであるのかもしれないが、今は適切な言葉が見つからない。ただ、自分自身の価値を他者の言葉で確認しようとするその行為が、時に人間関係を歪める原因となることを、彼女は理解しているのだろうか。

 

 「生ぬるいメンヘラ」という対象を批判することで、自分をその対極に置き、優位性を確認しようとする。だが、その優位性が非常に脆く、他者の目に依存している以上、一瞬で崩れてしまうのだろう。彼女が虐待と苦労を語ることで、その痛みを認めさせ、同情を引き出し、自分の価値を再確認しようとする姿勢は、他者からの承認を得るための操作であることが明らかだった。

 

 一方で、主催者の男性も、彼女の自己承認欲求を満たすための表面的なフォローを行っていた。それは一見温かい言葉のように聞こえるが、実際には薄っぺらい言葉のやりとりに過ぎず、真の共感や理解はそこにはなかった。

 

 人間関係は複雑であり、自己矛盾を抱えながらも進んでいく。他者とのつながりを求める一方で、そのつながりが自分の弱さを露呈させるという矛盾を抱えているのかもしれない。こんなやりとりを見ると、私はもう少し、素直に生きたいと思ってしまう。自分の価値を他者の反応で確かめるのではなく、自分自身の中に見つけたいと思う。