捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

社会

 朝、目覚めとともに襲いかかる重圧。それは、ただの目覚めではなく、何か決定的な敗北を告げる瞬間だ。目を開けると、まず感じるのは、入浴がまだ済んでいないという現実への落胆。疲れ切った体が、再び布団の中に沈み込みたいと叫んでいる。それでも何とか布団から這い出す自分がいる。だが、心はすでに消え去りたいと呟いている。枯渇した粘りを確認したあと、ゾンビのように起き上がる。

 

 働けないことに対する後ろめたさ。体力も気力も尽き果てた身体に、涙と弱音が溢れる。社会の冷たい視線を感じながら、それでも生きなければならない現実。

 

 「社会保障」という制度がなぜ生まれたのか、考えたことはあるだろうか。昔、人々はただ、施設に送り込まれるだけだった。「あなたはあの施設へ行きなさい。公費で補ってあげましょう。」そんな冷たい言葉が投げかけられていた時代があった。2000年よりも前、介護が必要な状況に陥った者には、選択の余地などなかった。ただ、社会の決めた道を歩むしかなかった。

 

 働かないと、生きることさえ許されない。働くことができなければ、社会の外れ者として扱われる。そして、その外れ者には、社会からの救済など、期待できるはずもない。だが、私はそのルールに従うことができない。

 

 そんなのは、まっぴらごめんだ。社会は敵ではない。社会の求める生き方に無理やり合わせようとすることは、自分自身を破壊することに他ならない。脱線した生き方を選んででも、自分を守らなければならない時が来ているのだ。

 

 昔から、私はどこにも馴染むことができなかった。学校でも、職場でも、家庭でも、私は常に孤独だったし、私も誰にも心を開けなかった。社会が求める「普通」という基準に、自分を合わせることができず、いつも疎外感に苛まれていた。

 

 働けないことで、自分の価値を見失い、体力や気力が尽きてしまった今、私は一層、社会との距離を感じる。社会からの期待に応えられないことが、自分を責める材料となるが、普通に考えると、そんなの気にしなくてもいいような気もするし、やっぱりわからないし。社会は、私の存在を必要としていないのではないかという不安が、自分にも存在するのかと思うと、なんだか呆れてきた。

 

 それでも、少しでも安全な場所を見つけなければならない。どこにも馴染めなかった自分を、これ以上傷つけないようにするためには、何かしらの防御策が必要だ。

 

 働けない自分に対する嫌悪感、体力がないことへの絶望、気力がないことへの無力感。涙が出て、弱音が出る。それでも、私は生き続けるしかないのかもしれない。自分を守るために、どこにも行けない自分を守るために。