捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

8月31日へ

 夏の終わりがいつの間にかやってきて、道尾秀介の『向日葵の咲かない夏』を手に取った。私は読書好きの人間のように、自分の夏と物語の夏を絡めてなにか深い気持ちを観測することはできず、ただミステリーの推理要素を摘要し、登場人物たちの行動や思考のパターンを分析することでページを進めていった。気づけば2024年の8月も終わりに近づいていた。時間が過ぎ去っていく。明日は31日だ。

 

 8月が終わるということは、夏が終わるということ。けれど、その感覚はどこか麻痺していた。最近は特に異常なほど暑く、逆に季節感を無視した外気温が続いている。台風が近づいているらしいが、それさえもどこか遠く、まあ実際、台風は九州にいるので、関東にいる自分にとっては遠いのだが、現実感がない。ニュースキャスターが不安そうな表情で伝える天気予報も、テレビの向こうの出来事のように感じられた。

 

 ふと、眠る時間がわからなくなってきたと思う。夜の闇の中、時計の秒針だけが静かに進む音を聞きながら、私の意識はぼんやりと漂っている。少し、考え事をしてみる。

 

 人間が動物だった頃、人間同士の争いがなかったという話をどこかで聞いたことがある。人間が獣と対峙していた時代、そこで狩りが行われていたから、人間同士は争わなかったらしい。それは本当だろうか。狩りが行われるということは、そこには必ず生と死の緊張があったはずだ。言語がなかったとしても、思いに種類がなかったとしても、憎悪や恐れ、嫉妬といった感情はきっと存在していたに違いない。そして、それらの感情が殺意を生む。言葉がなくても、目の前の相手を排除したいという欲望は自然と芽生えるものだろう。

 

 では、言語はどこから来たのか。言語がなければ思いは伝わらない、というのは誤りだ。むしろ言語があるからこそ、思いが複雑になり、争いが生まれるのではないか。言語は感情を表現するためのツールであり、そのツールが発達することで、人間の思いはより多様になり、より深く、より鋭くなっていく。そうして、人間は他者との間に壁を築き、争いを始めたのだろう。思いが複雑であることが人間の証であるならば、その複雑さこそが人間の悲劇の源だ。

 

 弥生時代には、縄文時代よりも石鏃が大きくなっているという。これは、狩猟の技術が進歩したというだけではなく、争いの激化を意味するのかもしれない。弥生時代の人々は、狩りのためではなく、人と人とが争うために石鏃を大きくしたのだろう。戦うための道具が発達するということは、そこに戦う意志があったことを示している。私は何故か冷ややかな気持ちになった。争いは、進化の過程で自然に発生するものなのか、それとも人間が意図して作り出したものなのか。どちらにせよ、人間は争いを避けることができなかった。そして今もなお、争いは続いている。

 

 人間は進化をしてきたが、そもそも進化とは何だろうか。争いを避けるために進化するのではなく、争いをより効果的に行うために進化しているように思える。言語を持ち、道具を作り、文明を築いた人間がたどり着いた先は、結局のところ争いの場だ。平和を願いながらも、争いから逃れることができない。そんな矛盾を抱えたまま、私は今日も眠れないようでどうせ眠れる夜を過ごす。

 

 時計の秒針は進み続け、やがて夜明けが訪れるだろう。その時、私はまた新しい一日を迎えるのだが、その一日は平和であるのだろうか、それとも新たな争いの始まりであるのだろうか。誰にもわからない。私はただ、次の夏が来るまで、夜を数え続けるしかない。

 

 『向日葵の咲かない夏』を読み終えて、私はこれ以上脳のキャパシティを圧迫しないようにと、感想掲示板を漁った。