捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

優しさ

 どんなに優しい行為にも、必ず加害性が潜んでいる。他者に優しさを示すことで、その優しさが相手にとって負担になることがある。善意で行動しても、それが過剰な干渉や押し付けと感じられることもある。しかし、それが即ち「加害したい」という意思を持つわけではない。

 

 かつて、私は「優しくありたい」と願っていた。人間関係において、できる限り他者に対して優しさと思いやりを持ちたいと切に望んでいた。だが、その優しさは時に加害の性質を帯びることがある。その願いが現実とかけ離れていることを知った時、私は、優しさが相手の自由を奪い、束縛する一面を持ち得ることに恐れを抱いた。

 

 誰かに助けを差し伸べることは、表向きは善意の行為だ。しかし、助けを受けることによって相手が自己否定に陥ったり、自立心を失ったりする可能性もある。私たちは自分の行動が相手にどんな影響を与えるか、完全に把握することはできない。どんなに慎重に行動しても、その結果が相手にとって好ましくないものとなることはあり得る。

 

 いまでこそ、人間の優しさが加害性を含むことを受け入れてしまったが、優しさを持ちたいという願望と、加害性を避けたいという矛盾した欲求の間で、私は人間関係の複雑さに直面することになった。

 

 優しさが加害性を含むと理解しつつ、それでも「優しくありたい」と願うことにどんな意味があるのか。その問いに対する答えは簡単ではない。

 

 私たちは、他者との関わりにおいて常に選択を迫られる。優しさを示すか、それとも距離を置くか。その選択は、その場の状況や相手の感情に応じて変わる。しかし、優しさを示すことを恐れるべきではない。

 

 加害性を含む可能性があるからといって、優しさを捨て去るのは無情なのだろうか。たとえその優しさが不完全で、時には相手にとって負担となることがあったとしても、私たちは他者に対してできる限りの思いやりを示すべきなのだろうか。

 

 優しさを示すということは、おそらく相手のためにそうしているのではなく、人間が生きていく上で身につけた自分のための策のひとつなのだと思う。