捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

古傷を抉る

 私を傷つけた人が何事もなかったかのように日々を過ごし、後悔や罪悪感に苛まれることもなく生き続けると思うと、そのことがどうしようもなく辛いことがある。常にこんなことを考えているわけではないが、なにかの拍子にヒョイっとやってくる。

 

 彼らにとっては些細なことであったり、無意識の行為であったとしても、私にとっては深い傷を残す出来事だった。しかし、彼らがそれを認識していないのか、意図的に無視しているのか、その無関心さが私をさらに苦しめる。まるで私の痛みなど存在しないかのように、彼らは平穏な日常を送っているのだ。

 

 この思考に囚われていると、時に私がこの世界から消え去ることが一番の解決策なのではないかと考えてしまう。私が死ぬことで、この頭の中の混沌とした感情から解放されるのではないかという考えが浮かぶ。その方が理にかなっているように思える。

 

 だが、そんな考えにふけることは、どこかで自分自身への許しを求めているのかもしれない。自分が傷ついたという事実を受け入れ、その痛みから逃れるための一つの手段として、死が浮かび上がるのだろう。

 

 しかし、本当に私を傷つけたのは他人ではなく、自分自身だった。私が勝手にその言葉や行為に傷ついたのではないかと考えると、一層苦しい。人の行動や言葉に対して、どうしてここまで敏感に反応してしまうのか。

 

 彼らの意図がどうであれ、私自身がその出来事をどう受け取るかが全てであり、それによって自分自身を傷つけているのではないか。

 

 自己の感情に対する責任を自覚することは、苦痛を伴う。誰かが私を傷つけたという思考は、他者に責任を押し付けることで一時的な安心を得られるが、真実はもっと複雑だ。

 

 自分の感情や反応は自分自身のものだ。それを他者に委ねてしまうと、自己のコントロールを失うことになる。そう考えると、やはり私を傷つけたのは他者ではなく、自分自身の受け取り方だったのかもしれない。

 

 それでもなお、過去の出来事やその記憶から逃れられない時、私はどうすれば良いのか。自分自身を責め続けることは解決にはならない。私が勝手に傷ついたとしても、その痛みを無視することはできない。その痛みは私にとって現実であり、それが私の一部であるということを認めざるを得ない。

 

 しかし、同時にその痛みを抱えながら生きていくこともまた、私の選択肢である。自己憐憫に陥ることなく、どうすればその痛みと共に前に進めるのかを考えなければならない。

 

 私が死ぬことでこの苦しみから解放されるのか、それとも生き続けることで新しい道を見つけるのか、その選択は私に委ねられている。どちらの選択肢にもリスクと希望が混在している。私がどちらを選ぶにせよ、それは私自身の責任であり、その選択によって私の未来が決まる。