捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

目撃談

 駅のホームは、多くの人々が交差する場所であり、それぞれの人生が一瞬交わる場面を提供する。そこで目にしたのは、独り言が溢れて止まらない人と、それを見て笑い合う2人組の女性だった。

 

 彼女たちは、その人の言葉を滑稽なものと捉え、隠れた嘲笑を友人と共有していた。目配せとコソコソ笑い、その行為は一見些細なものであり、誰もが一度は経験したことがあるだろう。しかし、その瞬間に感じたのは、彼女たちの優しさの粒がぽろぽろと落ちていく音だった。

 

 優しさとは、人間が持つ最も脆く、最もキモいものの一つである。それは普段は目に見えない形で存在しているが、時折その欠片が零れ落ちる様子を垣間見ることができる。

 

 あの女性たちの笑いは、その欠片が落ちる音に似ていた。それは無邪気な笑いではなく、無意識のうちに誰かを傷つける行為だった。彼女たちが見ていたのは、ただの独り言をつぶやく人ではなく、彼女たち自身の無意識に抱える不安や恐れの象徴だったのかもしれない。

 

 彼女たちがその人に対して感じたものは、単なる優越感や軽蔑ではなく、もしかすると自分たちが持つ恐れを投影した結果だったのかもしれない。私たちは誰もが、他者の不安定さや異質さに対して無意識に距離を置くことがある。

 

 そこには、自分たちがそのような状況に陥ることへの恐怖が潜んでいるのかもしれない。しかし、その恐怖を嘲笑という形で表現することは、自分たちの中の優しさを少しずつ削り取る行為でもある。

 

 駅のホームで起こった出来事は、一見すると取るに足らないものである。しかし、その背後には、人間の内面に潜む複雑な感情の絡まりが見え隠れしている。彼女たちがその場を後にした後、残されたのは静かなホームと、その人の続く独り言だけだった。しかし、その場に立ち会った者として、私はその瞬間に感じた優しさの欠如が、どこか寂しさを伴うものだったことを覚えている。

 

 優しさの欠片が落ちる音。それは日常の中でしばしば聞き逃されるが、その音は確かに存在する。私たちが他者に対してどのように接するか、それは私たち自身の内面を映し出す鏡である。

 

 誰もが持つ不完全さを認め、共感することの大切さを思い出させる瞬間でもあった。