贅沢病という言葉が脳裏をかすめる度、日常の重圧に押し潰されそうになる。世の中にはもっと必要とされている人がいる、もっと困窮している人がいる。そんな言葉の羅列が、贅沢を罪とする感覚を強化する。
だが、私は贅沢病だからこそ、時々喫茶店でケーキを食べる時間が必要だと感じる。別にケーキに限った話ではない、その時口にしたいものを口にしていい。日々の奔走の中で甘美な瞬間を持つことは、小さな救済である。
喫茶店に足を運ぶのは、一種の儀式だ。入り口をくぐると、微かな珈琲の香りと共に、時が少しだけ緩やかになる。店内のどこかに流れる音楽、落ち着いた照明の中で、なんだかよくわからないけど、自分を取り戻した気になる。
日常の喧騒から一歩離れ、ケーキと向き合う時間は、自己と向き合う時間でもある。その瞬間、私の中の何かが解放されるのを感じる。大げさかもしれないが、それは生きるための儀式だとすら思う。
フルーツタルトの鮮やかさ、チョコレートケーキの深いコク、抹茶の苦味がほのかに広がるムース。どのケーキも、それぞれが独自の物語を持っている。
「贅沢病」という言葉は、時に重く響く。社会的な期待や義務感が、自己の欲望を抑えつける。しかし、それでも私は自分のためにこの時間を持ちたいと思う。自分自身の心の声に従うことはとても大切で、時には贅沢をすることで自由を感じることができる。それは決して贅沢のための贅沢ではなく、必要な贅沢だ。
贅沢病という名の自己批判から解放されるために、時折喫茶店でケーキを食べることは、私にとって一つの抵抗である。自己の欲求を満たすことでしか得られない幸福があり、その幸福は刹那的でありながら、何にも代えがたい価値を持っている。