捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

恋人

 恋人が欲しいかと問われると、いつも答えに詰まる。欲しいかもしれない、いや、いらないかもしれない。実際のところ、「恋人」という存在そのものが欲しいわけではなく、ただ他人を愛することへの免罪符が欲しいのかもしれない。

 

 世間では恋人がいることで得られる安心感や承認が重要視されている。しかし、その背後に隠された動機は、もっと複雑で、他人を愛することに対する社会的な許可を求める無意識の欲求が含まれているのだろう。

 

 恋人がいることで、孤独でいることへの疑問や社会からの無言の圧力から解放される。恋愛という枠組みの中で他人を愛することで、自己満足や安心感を得ようとする。しかし、その中には「愛することへの許可」を求めるという、奇妙な姿勢が潜んでいる。

 

 他人を愛することに、恋愛関係という特定の形が本当に必要なのだろうか。恋人がいることでその愛情が正当化され、安心感を得る。だが、その行為の背後には、自己矛盾が隠れている。愛することは、自己の内面から自然に湧き上がる感情であるべきで、それを外部の承認に頼る必要があるだろうか。

 

 さらに、恋人がいることが幸福をもたらすとは限らない。恋愛関係に苦しむ人々がいる現実が、それを物語っている。にもかかわらず、恋人を求めるのは、根本的な不安や孤独感を埋めようとする試みに過ぎないのではないか。

 

 結局、やっぱり私が求めているのは、他人を愛するための正当性を得るための免罪符に過ぎないのかもしれない。恋人がいることでその愛情が正当化されると信じ、自己欺瞞から逃れようとする。それはただの自己満足に過ぎず、真に他人を愛するためには、外部の承認ではなく、自分自身の感情を信じ切ることが必要だ。

 

 愛することは、本来、自己の内面から湧き上がる純粋な感情であるべきだ。その感情を受け入れ、表現することに対する恐れや不安を克服することが、本当の愛への第一歩なのかもしれない。

 

 恋人が欲しいという欲求は、社会的な期待や規範に囚われた自分の中のもっと深い感情や願望を反映している。しかし、自己の内面にある感情を正直に見つめ、そのまま表現することで、他人を愛するための免罪符など必要ないはずだ。真の愛は、外部の条件に依存せず、内なる感情の純粋な表現から生まれるものだと、私は信じたい。

Twitter

 最近、所有しているTwitterアカウントが2つ以上あることから、人(自分でも他人でもある)の悪意を感じ取って耐えられなくなった。

 

 一方のアカウントを閉鎖し、もう一方のアカウントで行おうとしていたことを全て諦めた。面識のない人々をブロック解除し、鍵をかけることで、自分自身を守ろうとした。

 

 しかし、その結果として、私は閲覧者がほとんどいないはてなブログに避難することになった。ネット上での人間関係は、一見するとシンプルであり、異なるアカウントを使い分けることで異なるコミュニティに適応できるように思える。しかし、実際にはその関係は予測不可能であり、悪意がどこにでも潜んでいる。それを感じ取るたびに、私は逃げ場を求めるしかなかった。

 

 アカウントを閉鎖したとき、私の一部が閉じ込められたような感覚に襲われたが、それと同時に「やっと終わった」と安堵した。この一連の出来事の中で、私は自分の思考や感情を自由に吐き出すことができる場所として、はてなブログにたどり着いた。ここでは、閲覧者がほとんどいないため、自分を守る必要がなく、孤独の中で自分自身と向き合うことができる。しかし、避難所での生活が楽であるわけではない。

 

 孤独の中で自分の思考を深める一方で、社会との接点を失っていく不安が募る。人と関わることを避け続けると、やがて現実世界でのつながりも薄れていくのではないかという恐れがある。私は人と関わることが苦手だということを認識しているが、それはスキル的な面でもあり、好みの問題でもある。

 

 このブログを通じて、自分の考えを整理し、書くことで自分自身を確認する。人間関係の複雑さに翻弄される中で、私にとって唯一の確かなことは、自分の内側にある思考と感情だ。それが私の真実であり、この場所でだけは偽りなく存在することができるかもしれない。

 

 今は、この静かな避難所で自分を見つめ続けるしかない。たとえこの時間が、新たな一歩を踏み出すための準備期間でなかったとしても、続かない日記の代わりとして、この場所が私にとって機能し続けることを願っている。

東京都知事選

 都民ではない私に対して「都知事選誰に入れる?」と訊いてくる人がいるのは、少々不思議だ。まるで、私がその場にいるかのように話を振られるたび、何かを感じるというよりも、その感覚のズレに戸惑ってしまう。

 

 これまでに4人に訊かれたことがあるが、その熱意を地元の選挙にも向けてほしいと願ってしまう。どうしても都知事選という、大都市の華やかさに人々が惹かれてしまうのだろうか。それとも単に、地方の選挙には熱が入りづらいのだろうか。

 

 私の周りでは基本的に石丸伸二を支持している人が多い。もしくは、石丸伸二を支持するような人が、積極的に選挙の話をしてくるのかもしれない。彼を支持する同僚は、彼のことを「理論的でかっこいい」と評するが、政策の具体的な話はほとんどしない。それが私には不思議で、どこか物足りない気持ちにさせられる。

 

 掲げられた政策が実際に実行されるかどうかは、結局のところ不透明だが、選挙がしばしば人気投票にすり替わるのではないか(もうそうなっているが)という疑念が拭えない。どんなに革新的な政策を思いついたとしても、その政策を語る人物の魅力やコミュニケーション能力がなければ、選挙には勝てないのだろう。私のように根暗な性格では、どれだけ優れた政策を考えたところで、当選の可能性はほとんどないだろう。

 

 選挙が政策だけではなく、その人物自身の魅力やコミュニケーション能力に依存する現実を痛感させられる。人々の心を掴む力がなければ、どれほど優れた考えを持っていても、それが日の目を見ることは難しいのかもしれない。

スペース

 Twitterのスペースという音声配信機能には、言葉のやりとりが映像や文字と異なる形で、感情の奥行きや微妙なニュアンスが伝わるという特性がある。けれど、その特性が時として人々の内面を余計に露わにしてしまうこともあるようだ。

 

 先日、あるスペースに参加した際、一人の女性が「生ぬるいメンヘラ」に対する不満を次々と語り始めた。その話が一区切りつくと、今度は彼女の幼少期の虐待や苦労の話へと展開された。それに対して、スペースを主催していた男性が「でもそんな経験をしたのにしっかり生きていて素直に凄いと思う」と言葉を添えた。

 

 彼女は「そうなんですかね」と応じたが、その返しには満更でもない様子がうかがえた。私が感じたのは、彼女があえてその具体的なエピソードを語ることで、相手からの肯定的な反応を引き出そうとしている姑息さだ。

 

 それに対して、男性は「生ぬるいメンヘラ」について同意していたのに、この話になると彼女を「生ぬるいメンヘラ」から外す都合の良い基準を持っていることが透けて見えた。二人のやりとりは、どこか色気がないというか、表面だけをなぞっているように思えた。

 

 なぜ、人間はこうまでして他者からの承認を求めるのか。その承認が、実際には何か別のもの、例えば安心感や存在価値の確認に近いものであるのかもしれないが、今は適切な言葉が見つからない。ただ、自分自身の価値を他者の言葉で確認しようとするその行為が、時に人間関係を歪める原因となることを、彼女は理解しているのだろうか。

 

 「生ぬるいメンヘラ」という対象を批判することで、自分をその対極に置き、優位性を確認しようとする。だが、その優位性が非常に脆く、他者の目に依存している以上、一瞬で崩れてしまうのだろう。彼女が虐待と苦労を語ることで、その痛みを認めさせ、同情を引き出し、自分の価値を再確認しようとする姿勢は、他者からの承認を得るための操作であることが明らかだった。

 

 一方で、主催者の男性も、彼女の自己承認欲求を満たすための表面的なフォローを行っていた。それは一見温かい言葉のように聞こえるが、実際には薄っぺらい言葉のやりとりに過ぎず、真の共感や理解はそこにはなかった。

 

 人間関係は複雑であり、自己矛盾を抱えながらも進んでいく。他者とのつながりを求める一方で、そのつながりが自分の弱さを露呈させるという矛盾を抱えているのかもしれない。こんなやりとりを見ると、私はもう少し、素直に生きたいと思ってしまう。自分の価値を他者の反応で確かめるのではなく、自分自身の中に見つけたいと思う。

 理科ができない、と言いつつも、その疑問の根源には理科が教えてくれる以上のものが潜んでいるように思える。科学が提供するのは、事実や法則の説明にすぎない。しかし、そこにあるのは冷たいデータや数値だけではない。その背後に広がるのは、人類がまだ完全に理解していない、謎めいた世界の姿だ。

 

 地球に最初に発生した水の温度を考えるとき、私たちは単なる物理現象以上の何かに触れているのだろうか。最初の一滴が地表に降り注いだ瞬間、その水がどれほどの温度を持っていたのか。それが冷たかったのか、それとも熱を帯びていたのかは、私たちにはもう知る由もない。だけど、その一滴がもたらした影響は、今でも私たちの中に息づいている。

 

 科学の知識を持つ者は、この疑問に対して明確な答えを導き出せるかもしれない。しかし、その答えが私に何をもたらすのかは別の問題だ。初期の地球の過酷な環境の中で生まれた水は、単なるH2Oという化学式以上の意味を持つ。火山の爆発、隕石の衝突、これらが作り出した高温の水は、生命の誕生を促すための重要な役割を果たしたのかもしれない。

 

 もし、最初の水が冷たかったとしたら、私たちは冷ややかな環境から生まれたのだろうか。それとも、もしそれが熱湯だったとしたら、私たちの存在は熱と混沌から生まれたものなのか。どちらであれ、水の温度が私たちの存在の始まりにどう影響したかを考えると、そこに込められた深い意味が感じられる。

 

 そして、万物の根源が「ぬるま湯」であったなら、それはどうだろう。ぬるま湯のような曖昧さが、生命の誕生にどのような影響を与えたのかを考えると、なんとなくキモい。温度が低すぎても高すぎても、生命は生まれなかったかもしれない。その絶妙なバランスの中で、生命が誕生したのだとしたら、そこにこそ奇跡があるのかもしれない。

 

 私たちは日常的に、温度に対して敏感である。冷たい水、熱いお風呂、どちらも私たちに異なる感覚を与える。そしてその感覚は、私たちの記憶や感情と密接に結びついている。それゆえに、地球上に最初に発生した水の温度を想像することは、私たちがどこから来て、どのようにしてここに至ったのかを考える一助となるだろう。

 

 私たちは、水の温度のように絶妙なバランスの上に成り立っている。そして、そのバランスが崩れたとき、私たちはどこに向かうのだろうか。

麒麟の川島

 麒麟の川島が殺人の容疑で逮捕されたという奇妙な夢を見た。彼の普段のキャラクターとはかけ離れたそのシチュエーションに、私は夢の中とはいえ、驚かずにはいられなかった。

 

 さらに不気味だったのは、ラヴィットの他のメンバーたちがその事件の隠蔽を手伝い、共謀さえしていたことだ。彼らのいつもの笑顔が、どこか陰のあるものに変わり、仲間意識の裏に潜む苦悩や葛藤が透けて見えた。けれども、それでも彼らが犯罪に手を染めるとは到底信じがたかった。

 

 そんな中で、唯一潔白だったのは田村アナウンサーだった。彼女は厳粛な表情でラヴィットの最終回を進行していた。番組の最後、視聴者に対して深々と頭を下げる彼女の姿には、悲しみを抱えつつも、揺るぎないプロフェッショナリズムが滲んでいた。

 

 夢から覚めた後、その内容はすぐに霧散してしまったが、ふとした瞬間に思い出した。ラヴィットのメンバーたちが、まさかそんな状況に追い込まれるとは。

 

 この夢は、私の潜在意識が何かを訴えかけているのかもしれない。人間の表と裏、信頼と裏切り、仲間意識と個人の正義感。夢はこれらの複雑な感情や状況について考える契機を与えてくれたのだろう。

 

 川島の異様な姿や田村アナの毅然とした態度は、私にとって何かしらの重要なメッセージを含んでいるのだろう。日常の中で見過ごしている感情や、人間関係の複雑さにもう少し目を向けるべきだとか、まあそんなことを感じた朝だった。

知人の話

 知人が彼氏を作った途端、まるで別人のように変わってしまった。

 

 あれほど鮮明だった彼女の人生観は、今やぼんやりと抽象的な言葉でしか語られなくなり、その内容は捉えどころがなく、まるで他の星の生物と会話しているかのようだ。たった一瞬で救われた気になり、手のひらを返したように全ての景色が変わる恋愛というものが、恐ろしくてたまらない。

 

 この変わり様は、私が現世で喜怒哀楽を発揮する頻度を下げるには、実に都合の良い現象だった。恋愛が瞬時に人を変えてしまうその力を認識するたび、私はその影響力に対する恐怖を募らせる。

 

 確かに恋愛がもたらす喜びや幸福感を理解することはできる。だが、それに伴う変化の大きさにはどうしても納得がいかない。彼女の変化を観察しようと試みるも、その興味は薄い。

 

 人間は環境や経験によって変わるものであり、それは誰しも例外ではない。彼女の変化を受け入れることに抵抗を感じつつも、それが自然な現象であることも理解している。

 

 私自身も、いつか何かの影響で変わるかもしれない。人間関係には常に変化が伴うが、それにどう対処するかが重要だと思う。恋愛が持つその強大な力を目の当たりにし、私はその影響を考えざるを得なくなった。しかし、恋愛そのものを嫌いにならぬよう、適度な拒否感を抱いておこうと思う。