捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

 2月6日というと、年の瀬に立てた1年の目標を忘れる頃だ。年明けの清々しさや、少しばかりの希望も、今日を境に薄れていく。新しい目標を掲げたのも、ただの儀式のように過ぎ去り、気づけばいつもの毎日が戻ってくる。そんなことを思いながら、ふと外に目を向けると、関東にしては柄にもなく雪が降っていた。

 

 雪が降るたびに、私はそれを集める習慣がある。両手で丸めて小さなおにぎりのようにして、それをラップに包んで冷凍庫にしまう。何度も同じことを繰り返すうちに、その行為自体が無意味にも感じられるが、それでも、雪が降ると同じように続けている。

 

 今年も無事に採取が完了した。きれいに丸めた雪の塊が、冷凍庫の片隅にいくつも並んでいる。でも、あの雪には、何かしらの「思い」が込められているのだろうか。まるで古着が時折怨念を背負っているかのように。古着の山を見たとき、キモいけど、私にはそこにただの服以上の何かが感じられる。前の持ち主がどんな人で、どこで着られて、どんな場所を歩んだのか。そのすべてが服の繊維に染み込んでいる。それが怨念というかどうかはわからないけれど、なにかしらの「痕跡」なのは確かだ。

 

 それと同じように、雪もまた、ただの氷の粒に過ぎないはずなのに、そこには不純物が含まれている。その不純物には、街中を舞い、風に流されて集まった塵や埃、そして人々の吐き出す息が混ざっている。それらが一つの塊となって、私の手の中に収まっていると思うと、その雪の中に「思い」がないとは言い切れない。

 

 雪を手に取ると、その冷たさが手にしみる。過去の記憶が、冬の雪とともに蘇る。人々の声や表情、過去に出会ったすべての瞬間が、雪の一片に閉じ込められているように感じる。古着と同じように、雪もまた、過去の記憶や思いを吸い込んでいるのかもしれない。

 

 この雪は、昨年のそれと何が違うのだろうか。去年の冬に積もった雪と、今年の雪は見た目こそ同じように見えるが、果たしてその中に含まれる思いは異なるのだろうか。風の流れが変われば、雪が運ぶものも変わる。去年とは違う人々の吐息、違う街の埃、違う感情が、今年の雪に宿っているのかもしれない。冷凍庫に保存されたそれらが、やがて溶け出すとき、何が残るのだろう。冷たさだけが消え去り、不純物が沈殿するように、感情の残骸だけが残るのだろうか。

 

 怨念や思いというものは、いつも物の中に宿っているのだろうか。物に触れるたび、私はその背後にある何かを感じ取ろうとしているのかもしれない。それが雪であれ、古着であれ、すべての物がかつて誰かの手に触れられ、誰かの思いを受け取ってきた。そのすべてが、今この瞬間に私の手の中にあるのだと思うと、少し背筋が寒くなる。