捻くれ肴

2001年8月12日生まれ 女性

PayPay

 最近、PayPayを始めた。性別を編集しようとした時、「登録」ではなく「設定」とあった。何か現代的な響きを感じた。

 

 一昔前なら「登録」だっただろう。それはただ情報を投げ込むだけの行為で、自分の意思などどこにもない。しかし、「設定」とは、自ら選び決めるという意思が込められている。

 

 自分が主役となり、主体的に選択をする。これは現代の特徴あり、すべては自分で決め、責任を負う、孤独な自由がそこにある。

 

 今のデジタル社会は、こうした細やかな表現の違いで個人の意思を尊重しようとしている。表面上は些細なことかもしれないが、その背景には深い意味がある。従来の「登録」は機械的で無感情な作業だったが、「設定」はユーザーが自分の意志で情報を管理し、カスタマイズするという行動を促す。

 

 PayPayの「設定」という言葉の選択には、ユーザー体験を向上させようとする意図が感じられる。これは、ただの言葉の違いにとどまらず、アプリの使いやすさやユーザー中心の設計思想を反映している。デジタル時代の設計は、個人の意思や多様性を尊重し、より柔軟な対応が求められているのだと思う。

 

 また、「設定」という表現は、現代社会の多様性への配慮も示している。性別の選択肢が多様であることで、ユーザーは自分に最も適した設定を選べる。

 

 これは、社会全体の多様性を尊重する姿勢を示し、利用者の幅を広げる効果がある。現代のデジタル社会では、個人の選択やアイデンティティを尊重することが重要視されている。

 

 このような工夫が、日常の中で感じる小さな不満を解消し、使いやすさを向上させる。言葉の選び方ひとつで、アプリの使いやすさや印象が大きく変わる。

 

 PayPayの「設定」という表記は、現代的な感覚を反映し、ユーザーの意思を尊重する姿勢を示していると感じた。このような細やかな配慮が、デジタル社会におけるサービスの質を向上させ、ユーザーにとってより親しみやすい環境を提供することにつながっている。

 

 日々の生活の中で、こうした小さな違いが積み重なり、私たちの体験を豊かにしていくのだろう。

間違い

 もし、気の合う友人が現れたり、心から愛せる恋人ができたとき、その瞬間に孤独論は崩れ去るだろう。そして、その新たな人間関係を通じて、孤独ではなく他者と共に過ごすことの大切さを実感することになる。

 

 現在のこの孤独を貫こうとする思いは、自分自身への否定となり、自らの感情を裏切る行為となる。

 

 孤独であることを肯定する一方で、実際には人間は社会的な存在であり、他者とのつながりを求める欲求を持っていて、それを無視し続けることは、自分自身を偽ることと同じだとも思っている。

 

 新しい人間関係が広がった時、孤独論という壁が壊れ、仮説は崩れていくのだろう。

 

 他者との関係を築くことは、時には傷つき、失敗を経験するかもしれないが、それでもなお、その経験を通じて真の自己を見つけることができることも可能性もある。

 

 孤独に閉じこもることなく、他者との交流を受け入れることで、自分自身をより深く理解し、他者から学ぶことができることもわかっている。

 

 未来のどこかで、心の底から信頼できる友人や愛する人と出会ったとき、自分がかつて信じていた孤独論の虚しさに気づくことになるだろう。その瞬間に、孤独という考え方が過去のものであり、現在の自己を否定する必要がないことを実感する。

 

 だが、今の自分を労わるためには、孤独であるべきだと考えている。もうこれ以上、痛い目に遭いたくない。

 

 思う存分感度が鈍ったら、孤独論を捨ててみよう。「周りにいる〇〇さんはあなたの友達じゃないの?」とか、「可愛いのに、若いのに、彼氏がいないなんてもったいないよ」だなんて、よく言えるな。

不審者

 昔、桜が満開の公園で遊んでいた時、酔っ払った一人のおじさんが私に近寄ってきた。住所を訊ねられ、当時小学生だった私は戸惑ったが、一緒にいた女の子はあっさりと私の住んでいるマンションを教えてしまった。慌てた私は「それ以上言わないで」と彼女を止めたが、もう遅かった。

 

 事態は私の予想を超えた形で進行していった。どのようにしてその情報が伝わったのかは覚えていないが、学校全体に不審者情報としてその出来事が広まり、プリントに記載されて各家庭に配布されるまでに至った。私が公園で遭遇した酔っ払いのおじさんの話が、職員室の先生たちとそのプリンターを通じて、学校全体を巻き込む事態へと発展してしまった。

 

 その時の私の気持ちは、複雑極まりなかった。軽率に住所を伝えた女の子への不信感が募る一方で、学校全体にそのことが広まってしまったことへの恥ずかしさと戸惑いが入り混じっていた。なんで気まぐれで花見なんて行ったんだろうと、ひどく後悔したことを今でも鮮明に覚えている。

 

 学校としては、生徒の安全を最優先に考えた上での対応だったのだろう。しかし、私にとっては居ても立っても居られない、どうしようもない状況だった。不審者として扱われたおじさんが本当に危険な人物だったのかどうかは、未だに分からない。しかし、自分の小さな行動がこんなにも大きな影響を引き起こすことになるとは、当時の私は夢にも思っていなかった。

 

 それ以来、私の中にあった人に対する警戒心は何倍にも膨れ上がった。そして、自分の行動には責任が伴うという意識が強く芽生えることとなった。今でも、その出来事を思い出すと、冷や汗が出る。

8月31日へ

 夏の終わりがいつの間にかやってきて、道尾秀介の『向日葵の咲かない夏』を手に取った。私は読書好きの人間のように、自分の夏と物語の夏を絡めてなにか深い気持ちを観測することはできず、ただミステリーの推理要素を摘要し、登場人物たちの行動や思考のパターンを分析することでページを進めていった。気づけば2024年の8月も終わりに近づいていた。時間が過ぎ去っていく。明日は31日だ。

 

 8月が終わるということは、夏が終わるということ。けれど、その感覚はどこか麻痺していた。最近は特に異常なほど暑く、逆に季節感を無視した外気温が続いている。台風が近づいているらしいが、それさえもどこか遠く、まあ実際、台風は九州にいるので、関東にいる自分にとっては遠いのだが、現実感がない。ニュースキャスターが不安そうな表情で伝える天気予報も、テレビの向こうの出来事のように感じられた。

 

 ふと、眠る時間がわからなくなってきたと思う。夜の闇の中、時計の秒針だけが静かに進む音を聞きながら、私の意識はぼんやりと漂っている。少し、考え事をしてみる。

 

 人間が動物だった頃、人間同士の争いがなかったという話をどこかで聞いたことがある。人間が獣と対峙していた時代、そこで狩りが行われていたから、人間同士は争わなかったらしい。それは本当だろうか。狩りが行われるということは、そこには必ず生と死の緊張があったはずだ。言語がなかったとしても、思いに種類がなかったとしても、憎悪や恐れ、嫉妬といった感情はきっと存在していたに違いない。そして、それらの感情が殺意を生む。言葉がなくても、目の前の相手を排除したいという欲望は自然と芽生えるものだろう。

 

 では、言語はどこから来たのか。言語がなければ思いは伝わらない、というのは誤りだ。むしろ言語があるからこそ、思いが複雑になり、争いが生まれるのではないか。言語は感情を表現するためのツールであり、そのツールが発達することで、人間の思いはより多様になり、より深く、より鋭くなっていく。そうして、人間は他者との間に壁を築き、争いを始めたのだろう。思いが複雑であることが人間の証であるならば、その複雑さこそが人間の悲劇の源だ。

 

 弥生時代には、縄文時代よりも石鏃が大きくなっているという。これは、狩猟の技術が進歩したというだけではなく、争いの激化を意味するのかもしれない。弥生時代の人々は、狩りのためではなく、人と人とが争うために石鏃を大きくしたのだろう。戦うための道具が発達するということは、そこに戦う意志があったことを示している。私は何故か冷ややかな気持ちになった。争いは、進化の過程で自然に発生するものなのか、それとも人間が意図して作り出したものなのか。どちらにせよ、人間は争いを避けることができなかった。そして今もなお、争いは続いている。

 

 人間は進化をしてきたが、そもそも進化とは何だろうか。争いを避けるために進化するのではなく、争いをより効果的に行うために進化しているように思える。言語を持ち、道具を作り、文明を築いた人間がたどり着いた先は、結局のところ争いの場だ。平和を願いながらも、争いから逃れることができない。そんな矛盾を抱えたまま、私は今日も眠れないようでどうせ眠れる夜を過ごす。

 

 時計の秒針は進み続け、やがて夜明けが訪れるだろう。その時、私はまた新しい一日を迎えるのだが、その一日は平和であるのだろうか、それとも新たな争いの始まりであるのだろうか。誰にもわからない。私はただ、次の夏が来るまで、夜を数え続けるしかない。

 

 『向日葵の咲かない夏』を読み終えて、私はこれ以上脳のキャパシティを圧迫しないようにと、感想掲示板を漁った。

社会

 朝、目覚めとともに襲いかかる重圧。それは、ただの目覚めではなく、何か決定的な敗北を告げる瞬間だ。目を開けると、まず感じるのは、入浴がまだ済んでいないという現実への落胆。疲れ切った体が、再び布団の中に沈み込みたいと叫んでいる。それでも何とか布団から這い出す自分がいる。だが、心はすでに消え去りたいと呟いている。枯渇した粘りを確認したあと、ゾンビのように起き上がる。

 

 働けないことに対する後ろめたさ。体力も気力も尽き果てた身体に、涙と弱音が溢れる。社会の冷たい視線を感じながら、それでも生きなければならない現実。

 

 「社会保障」という制度がなぜ生まれたのか、考えたことはあるだろうか。昔、人々はただ、施設に送り込まれるだけだった。「あなたはあの施設へ行きなさい。公費で補ってあげましょう。」そんな冷たい言葉が投げかけられていた時代があった。2000年よりも前、介護が必要な状況に陥った者には、選択の余地などなかった。ただ、社会の決めた道を歩むしかなかった。

 

 働かないと、生きることさえ許されない。働くことができなければ、社会の外れ者として扱われる。そして、その外れ者には、社会からの救済など、期待できるはずもない。だが、私はそのルールに従うことができない。

 

 そんなのは、まっぴらごめんだ。社会は敵ではない。社会の求める生き方に無理やり合わせようとすることは、自分自身を破壊することに他ならない。脱線した生き方を選んででも、自分を守らなければならない時が来ているのだ。

 

 昔から、私はどこにも馴染むことができなかった。学校でも、職場でも、家庭でも、私は常に孤独だったし、私も誰にも心を開けなかった。社会が求める「普通」という基準に、自分を合わせることができず、いつも疎外感に苛まれていた。

 

 働けないことで、自分の価値を見失い、体力や気力が尽きてしまった今、私は一層、社会との距離を感じる。社会からの期待に応えられないことが、自分を責める材料となるが、普通に考えると、そんなの気にしなくてもいいような気もするし、やっぱりわからないし。社会は、私の存在を必要としていないのではないかという不安が、自分にも存在するのかと思うと、なんだか呆れてきた。

 

 それでも、少しでも安全な場所を見つけなければならない。どこにも馴染めなかった自分を、これ以上傷つけないようにするためには、何かしらの防御策が必要だ。

 

 働けない自分に対する嫌悪感、体力がないことへの絶望、気力がないことへの無力感。涙が出て、弱音が出る。それでも、私は生き続けるしかないのかもしれない。自分を守るために、どこにも行けない自分を守るために。

大学

 大学という場所は、実に不思議な空間である。学問の場であるはずのそこに、「文系」や「理系」という二分法が存在し、何の根拠もないしきたりのように、それが学生たちの間で当たり前のように語られている。まるで、世界を理解するためにはそのどちらかに属さなければならないと決めつけられているかのように。

 

 ある日、同級生たちが集まって話していた。「高校生って若いよねー!もうおばさんみたいなこと言っちゃうわ......」と自虐的に笑い合う彼女たち。私はその輪に加わりながらも、心の中で少し冷めた目線を持っていた。みんなより少し年上である私が、「エへへ〜」と愛想笑いを浮かべた瞬間、その会話が突然途切れてしまったのだ。その場が微妙な空気に包まれたことが明白で、私は心の中で「やっちまったな」と思いつつも、その場で爆笑してしまう自分がいた。なんとも申し訳なく、同時に滑稽な状況だった。

 

 彼女たちは私を「お姉さん」と呼び、ある種の敬意を持って接しているようだったが、それが私にとっては重荷であり、同時に滑稽さを感じさせるものだった。「お姉さん」と呼ばれることで、彼女たちは自らを「おばさん」と感じないようにしているのだろう。しかし、その境界線は実際のところ無意味で、ただの幻想に過ぎない。年齢や学年の違いが何を意味するのか、それが彼女たちにとってのアイデンティティなのか、私は答えを見つけられずにいた。

 

 大学という場では、学年や年齢の違いが一つの境界線として存在する。だが、その境界線は曖昧であり、時に無意味に感じられることがある。私は年上であるがゆえに、彼女たちとは異なる存在として見られることが多かった。それが疎外感を生み出す原因であり、私自身もその境界線を意識せざるを得なかった。

 

 「若い」と感じることがない自分。それは年齢に対する感覚が麻痺しているのか、それとも単に他人に対して興味が薄れているのか。いずれにせよ、彼女たちの若さに対する自虐的な発言は、私にとっては遠い世界の出来事のように感じられた。

 

 私は彼女たちとは違う存在であり、彼女たちが私を「お姉さん」として扱うことで、その違いがより明確になっていく。大学という場において、学年や年齢はしばしば無視されるべきものであると感じる。しかし、私は年齢を先に明かすことで、彼女たちに気を遣わせてしまったのかもしれない。だが一方で、年齢を隠していたことで、ある瞬間それがバレて、今までタメ口で接してくれていた人が、急に敬語に切り替えて会話をするようになった。そうなるくらいなら、今の予め年齢を明かしておくスタイルの方が、私にとってはストレスが少ないのだろうが、それは「同学年の団結力」から私を外させる結果となり、彼女たちとの間に見えない壁を作ってしまった。

 

 この見えない壁は、大学という場においてはしばしば存在するものである。学問を追求する場所でありながら、そこには無数の境界線が存在し、それが学生たちの関係性に影響を与える。私たちはそれらの境界線を意識しながらも、その境界線を超えようとする。しかし、時にはその境界線が私たちを孤立させ、疎外感を感じさせることもある。

 

 私が彼女たちと同じ学年であるにもかかわらず、年齢の違いがその関係性に影響を与えるのは、単なる社会的な構造の問題ではなく、私自身の心の中にある問題でもある。年齢や学年による境界線を超えることができず、彼女たちとの関係を築くことができない自分がいる。そのことに気づいた時、私は自分自身がその境界線を作り出していることに気づいた。

 

 大学という場は、私たちが自分自身を見つめ直し、自分自身を問い直す場である。しかし、そこには無数のしきたりや境界線が存在し、それが私たちの成長を妨げることもある。私はその境界線に囚われながらも、それを超えることができずにいる。年齢や学年、文系や理系といった無意味な分類に囚われ、自分自身を見失いそうになることがある。

味覚

 感情が味覚に直結する──それはまるで、自分の心の動きが口の中で再現されているかのような、不思議な感覚だ。

 

 熱が出ると、その体温の上昇だけではなく、口内にじわじわと広がる微妙な苦味が感じられる。それは辛いものを食べたときの外からの刺激とは異なり、内側から静かに、しかし確実に広がる苦味だ。これが「熱の味」だと私は呼んでいる。

 

 嬉しいことがあると、ふと感じるその味は、硬水のようにしっかりとした爽やかさを持っている。それは軽やかでありながらも確かな存在感があり、まるでその感情が舌の上に重なっているかのように感じる。

 

 一方で、嫌なことがあると、その味は渋く、雨水を口に含んだような、何とも言えない苦い味わいが広がる。この味が感じられるたびに、嫌悪感がじわじわと身体全体に染み渡り、感情の波が味覚を通して身体を支配していることを実感する。

 

 感情の起伏があるたびに、これらの味覚の変化を感じることが、私にとっては自己認識の一部となっている。喜びの味、悲しみの味、そして怒りの味。それらが交錯し、絡み合い、時には私を混乱させることもあるが、同時にその味覚を頼りに自分の感情を理解し、そのまま身を任せることも少なくない。

 

 この感覚が私の日常にどれほどの影響を与えているのかを考えると、感情というものがただの心の動きにとどまらず、物理的な体験としても存在していることを再認識する。そして、感情の味を感じながら生きることで、実体がないはずの感覚が、現実として私に突きつけられる。

 

 「人生を味わう」という言葉が、単なる比喩ではなく、実際に舌の上で感じるものだと気づいたとき、これから先、どんな味が私を待っているのか、少しだけ楽しみになる。その味がどんなものであれ、それは私の一部として生き続けるのだから。