心がほかほかした状態のまま息を引き取ったら、身体も温もりをもったままであってほしい。もし、ほかほかが保たれるのであれば、遺された者が逝った者に触れた時の寂しさが少し和らぐのではないかと思った。
だけど、逝った者の心が、冷蔵庫の中のように冷たくて暗い場合、その気持ちに寄り添えるように身体も冷たくなってほしい。それとも、もう既にこのような仕組みになっていて、息を引き取るものは全て冷たくて暗い心になってしまうのだろうか。
人間の体温は、心が作り出す温もりとも言える。だからこそ、冷たさを感じる死後の体は一層の悲しみを際立たせる。
その冷たさに触れた瞬間、私たちはその人がもうここにはいないという事実を突きつけられる。温かさは生命の象徴であり、息を引き取った者からそれが失われるのは当然のことかもしれないが、それでもなお、心の温もりが何かしら形として残せるのであれば、遺された者の心の慰めになるのではないか。
例えば、温もりを記憶する何かがあれば、それは生きた証を永遠に残す手段となるかもしれない。現実には不可能であっても、そのような想像は希望をもたらす。温もりが形として残れば、冷たい現実に直面する誰かの寂しさも少しは和らぐのではないか。
私たちは、亡くなった者の温もりを心に留め、記憶の中でその人を生かし続けている。死は避けられないが、心の温もりが消えるのを防ぐために、私たちはどのような工夫ができるのだろうか。
温かい記憶や思い出を語り継ぐことで、その人の温もりを保ち続けることができるかもしれない。心の中で、その人は永遠に温かいままであり続ける。
心がほかほかした状態での死を想像することは、ある種の慰めだ。それは、遺された者にとっての希望であり、故人との繋がりを保つための方法でもあるのかもしれない。
とまあ、らしくないことを考えたりもしたけど、私が死んだって誰も悲しみやしない。